建築と音楽、建築と衣服、建築と土木

建築が様々なものとの対比や隠喩で語られることは多い。音楽のように語られることもあるし、第2の衣服や第3の皮膚のように語られることもある。しかし元来、建築とはただの「モノ」であり、物質的側面から見れば、石と木と土の集合体でしかない。そして、それに芸術的な側面が加わったとしても、せいぜい「彫刻」にしかならないであろう。「彫刻」が「音楽」や「衣服」として語られるためには、何が必要なのだろうか。私は「社会性」と「体験性」であると考える。芸術家の私的感情を表現するための手段としての「彫刻」は、それ自体社会的意味を持たない。社会的な目的で造られたものであるとしても、「彫刻」というカテゴリーに属している時点で、そもそも他の用途をなしていないということになるのではないだろうか。しかし、建築は「彫刻」であってはならない。建築はそれを形作ろうと思った人がいて、作り出す人がいて、中で暮らす人がいて、それを眺める人がいて、はじめて「建築」としての地位が確立される。ゆえに、建築は本来的にそのどちらにも配慮しなければならず、これが「社会性」を持たなければならないと主張するための根拠となる。すなわち、建築は「社会的」な存在だから「社会性」が必要なのだという至極当たり前の結論が導かれる。
もう1つ、建築を建築たらしめている根拠として、「体験性」があげられると思う。ある本のなかで、「建築は小説に似ている。すべてを一度に体験することはできないが、ひとつひとつの体験の重なりが、ひとつの作品としての価値を表現している」と言われていた。これは音楽も一緒であり、ある音の連なりが、全体としての音楽を表現する。すべてを一度に体験できないという点で共通点がある。建築と土木の決定的な違いは、この「体験性」の次元の違いにあるのではないかと思う。土木も橋や道路など、体験できるものはあるが、長い間住んだり、中に入って外との関係を持ったりといった極めて私的な体験は、土木工作物にはできないのではないだろうか。建築と土木は極めて近い存在でありながら、この「体験性」の次元においては、はっきりとではないが、了解しうる相違が生じている。このような「体験性」は「所有」の観点からも生じてくるものかもしれない。土木工作物は本来的に公共のものであり、建築物は本来的に私的なものであることが多い。ゆえに、所有から来るある種の優越感や独り占め感が、「体験性」を強く認識させることになるのかもしれない。このことは、逆にいえば、土木においても「公共」とは少し離れたもの、たとえば壊れかけの橋や廃線、高速道路のジャンクションなど、誰もそれまで注目しなかったものを新たに注目することで、擬似的な「所有感」を得ることができるようなものは、建築における「体験性」を持っていると言えるかもしれない。だからこそ、建築の人は、土木構造物のそのような部分に惹かれることがあるのだと私は考える。