departures of house

解体業者は住宅の「おくり人」になることはできないかとふと考えた。
住宅は人と30年近くも関わるものだから、ペットやランドセルと同様に愛着が沸く。それが生物であれば、亡くなる時に祟りを恐れる感情からか、あるいはこれまでの感謝の気持ちからか、人々は儀式を行う。「死者たちの都市へ」(田中純)で昔読んだことがあるのは、都市は死者を恐れて発展してきたということだった。原住民は集落を環状につくり、真ん中のヴォイドにおいて使者たちとの冥界の交信を行い、それが祭りになった。祭りはトランス状態になることによって冥界と交信を行うものであった。
脱線したが、生物であれば死を悼む気持ちがあるように、物に対しても私たちは悼む気持ちがあるのではないかと思う。使い込んだランドセルを小さくして使いなおしたり、昔の恋人のプレゼントが捨てられないのは、私たちが物に感情移入をするからだろう。
そうであれば、私たちが人生の大きな部分で付き合うことになる住宅にもそういった愛着があり、それを解体するときには丁寧に見送りたいという気持ちはだれにでもあるのではないかと思う。
だから、解体業者はその家の思い出を残すような解体工事のサービスを提案したり、丁寧に、そして荘厳に家の最期を看取るような祝祭性があってもいいのではないかとふと考えた。

僕はある技術研究所の所員に「理想の家とはなんですか?」と聞かれたときに、自分が死ぬときに一緒に死んでくれて、最期の廃材の焼ける煙が自分の死を回りに静かに知らせてくれる家がいい」と答えたが、そういう愛着と暴力的なスクラップアンドビルドに対する嫌悪感は割りと同世代的な感覚なのではないかと思う。